誰もが驚いたオスカー・ピアストリの契約劇。マクラーレンとアルピーヌとの二重契約になるほど、まだF1に到達していないドライバーは魅力的なようです。しかし長いF1の歴史にはドライバーをめぐって、いや、シートをめぐって様々なドラマや裁判が行われてきました。その代表的な事件を紹介します。
ジェンソン バトン 2004/2005
バトンは、2000年にウィリアムズで F1デビューを果たした後、2001年2002年はベネトンでドライブ。2003年にBARに移籍し、この時代で最も有望な若手ドライバーの 1 人になりました。2004年、10回の表彰台を獲得し、チャンピオンシップで3位に入って成功したシーズンを過ごしましたが、8月5日ウィリアムズがプレスリリースで2005年以降の契約に署名したことを発表。しかし、BARは同意せず、2005年にバトンを使用するオプションがあったと主張しました。どの契約が有効かを決定するF1の契約認識委員会は、BARに有利な裁定を下したため、バトンは残留することになりました。しかし2005年にはバトン自身に有利なパフォーマンス条項を設け、ランキング首位のドライバーから一定の得点以上離されていた場合は自由に離脱可能とされていました。
そして2005年シーズンが始まり、チームは不振にあえいでおり、バトンはついに2006年からウィリアムズに行けるようにと事前契約を結びました。しかし、ウイリアムズも不振におちいり、搭載していたBMWエンジンを失うことがわかって、バトンは考えを変更。BARに残留したいと思うようになりました。不調であっても、BARは翌年からホンダのフルワークスチームになることに魅力を感じ、ウィリアムズに2006年の契約をなくそうと交渉。バトンは違約金 1,800万ドル(約23億円)を支払う必要がありました。2006年からホンダで走り、3年後ホンダが F1 を離れ、チーム代表であったロス・ブラウンが買収。新チームはブラウンGPとなりバトンはチャンピオンを獲得しました。非常に賢い選択で成功しました。
ミハエル・シューマッハー 1991
1991年ジョーダンのドライバー、ベルトラン・ガショーが、タクシー運転手との口論の末に投獄されたため、ベルギーGPで代役を立てることとなり、候補の中から選ばれたのが若きミハエル・シューマッハーでした。当初はあまり期待されていませんでしたが、11年目でベテランのチームメイト、アンドレア・デ・チェザリスをはるかに上回る7位で予選を通過し、皆を驚かせました。 お名前.com
#OnThisDay 1991 in the #BelgianGP, 22-year-old Michael Schumacher made his #F1 debut with Jordan #KeepFightingMichael pic.twitter.com/AFEA1C5bWl
— Zdravko (@zdravkost) August 25, 2015
残念なことに、シューマッハーのレースはクラッチの破損により最初のラップで終了しましたが、後のF1レジェンドは一気に注目のドライバーとなり、ジョーダンは次のレースもシューマッハを続けて参戦させようとしました。しかしシューマッハーは、契約を破棄し、ベネトンへ。ジョーダンは訴訟をするも、最終的にロベルト・モレノとのトレードで解決。ベネトンチーム代表であったフラビオ・ブリアトーレによる衝動的な決定のようにも見えましたが、スポーツの歴史の中で最高の決定であることが証明されました。 シューマッハーはすぐに最高のドライバーになり、1994 年と 1995 年に世界チャンピオンになりました。その後、史上最高のドライバーの1人になったのは皆さんご存知の通り。
ジャン・アレジ 1990
アレジは1989年ティレルからF1デビュー。1990年には最初の 4 レースで 2 度の表彰台を獲得しました。非力なチームでこの活躍だったことから「将来のチャンピオン候補」として注目を集めるまでに。1991年はティレルとのオプション契約も残っていましたが、シーズン早々からフランク・ウィリアムズが獲得に動き、1991年シーズンからウィリアムズに加わる仮契約を結びました。しかし、フランク氏の大本命はアイルトン・セナで、交渉中だったことから、アレジとは契約を結んでいたものの、なかなか発表されず、セナを優先させていることにアレジは不満を募らせていました。それと同時に、フェラーリもアレジ獲得に動いていたため、イタリア人の血を引いており、ジル・ビルヌーブを崇拝しているアレジはフェラーリと契約することに。フェラーリがウィリアムズとティレルに違約金を払う形で移籍が実現しました。
しかしその後の数年間、フェラーリの競争力が低下。1991年はアレジが行く予定だったウイリアムズでナイジェル・マンセルがチャンピオンに争いに加わり、1992年はついにマンセルがチャンピオンに。1993年もアラン・プロストがウイリアムズでチャンピオンになるという、アレジにとってはフラストレーションがたまる展開に。自身がその道を辿る予定だったはずなので、優勝、うまく行けばチャンピオン争いをするチャンスを逃してしまいました。フェラーリは信頼性もなく、5年間で1レースしか勝てませんでした。
Taxi for Jean Alesi
Montréal 1995#KeepFightingMichael pic.twitter.com/rdxqh4gTRp— Michael Schumacher (@_MSchumacher) June 10, 2017
その後6年F1キャリアを続けるもレースに勝つことはありませんでした。移籍の失敗事例ではあるものの、フェラーリドライバーという名誉で相殺されたようです。
ザウバーチーム 2015
資金難に陥っていたザウバーは複数のペイドライバーと契約することで資金を獲得していました。シートは2つしかないのに、2人以上のドライバーと契約。マーカス・エリクソン、フェリペ・ナッセ、エイドリアン・スーティル、ギド・ヴァン・デル・ガルデと有効な契約を4人と結んでおり、実は他にもジュール・ビアンキ、エスティバン・グティエレスとも契約しており、計6人だったとも言われています。最終的に2015年のシートを獲得したのはマーカス・エリクソン、フェリペ・ナッセ。ザウバーは有効な契約を結んでいたいにもかかわらず、シートを用意しなかった2人のドライバーに訴えられ両裁判とも敗訴しています。
エイドリアン・スーティルの場合、2014年からのレギュラードライバーで、契約がまだ残っていたため、要求された金額の違約金350万スイスフラン(約4億9,980万円)をザウバーが支払うことになりました。スーティルとの契約を破棄した理由について「パフォーマンス不足と、持参金不足」を述べて争いましたが、敗訴となりました。ギド・ヴァン・デル・ガルデは2014年のテスト兼リザーブドライバーで、2015年にレギュラードライバーに昇格する契約を結んでいました。F1シーズン開幕の前夜にシートを巡って裁判を起こされ、最終的にはザウバーが違約金を渡し、契約解除となりました。その後、両者の関係は断絶。
オスカー・ピアストリがアルピーヌでのシートを拒否したとき、ヴァン・デル・ガルデは面白い投稿をしました。ピアストリの「来年アルピーヌから走らない」という声明文に#ピアストリゲートをつけて「フェルナンド・アロンソの後継者からでなく、マーカス・エリクソンか、フェリペ・ナッセからこのメッセージを送られて欲しかったよ」とコメント
ラブライブ!コラボキャンペーン
価格:39,800円 |
価格:35,180円 |
アライ ミニヘルメット 1/2 F1 角田裕毅 アルファタウリ ホンダ #22 2021シーズン Arai Yuki Tsunoda 4100119 価格:25,800円 |
コメント