ウイリアムズ レーシングの創設者、フランク・ウイリアムズ。F1でのスタートは資金難に悩まされる日々だった。詳細は3分でわかる!ウイリアムズの歴史Part1【創設初期】
1978年の好成績を機にコンストラクターズ、ドライバーズチャンピオンも獲得できるようになる。しかしフランクは事故により車椅子生活となる。詳細は3分でわかる!ウイリアムズの歴史Part2【成功と絶望】
1988年アイルトン・セナ、アラン・プロストによるマクラーレンの黄金期と言われる時代。
当時のウイリアムズには優秀な人材が揃っていた。チームを立ち上げたパトリック・ヘッドは健在、天才設計士のパディ・ロウといった、F1界に名を残す才能がチームを支えていた。彼らは「圧勝しまくるマクラーレン・ホンダに、同じやり方では勝てない」と判断した。
そしてテクノロジーに力を注ぐことに舵を切る。
例えば救急車の乗り心地を改善していた人をスタッフに取り込むなど、電気よりも油圧で動くアクティブサスペンションの開発に尽力し、空力の効果を高めていった。
ネルソン・ピケがテストで4,500Km走っても壊れなかったことから太鼓判を押してくれたのもあり、満を持して88年のレース投入。しかし実践で結果を出すにはまだまだ早く、問題続出となった。
空力の進歩は簡単には行かず頭を悩ましていた時、レイトンハウスがエイドリアン・ニューウェイを解雇した。2021年現在レッドブルで「空力の魔術師」とも言われている若かりし日のニューウェイだ。ウイリアムズは彼をチームに招きFW14を開発した。それもあってFW14の外観はレイトンハウスによく似ている。
このように、ウイリアムズは専門的な技術者を雇うことでシステムを刷新していった。
アクティブサスペンション以外にも、姿勢制御装置、ABS、トラクションコントロールといった当時のハイテクを次々と取り入れていく。
91年、ナイジェル・マンセルが、マクラーレンのアイルトン・セナとチャンピオン争いを繰り広げるも、最終的に負けてタイトルを逃してしまう。しかも最終戦は雨のレースで、マンセルは壁に激突して骨が剥離骨折をしてしまった。
しかし、マシンは確実に速くなっていると確信し「翌年タイトルを獲れそうだ」と予感する。本来なら手術が必要だった身体であったが、「今手術をして開幕に間に合わなければチャンスを逃してしまう」と思い、手術をしないという選択をした。
チームは92年にFW14Bを誕生させる。F1で初めてアクティブサスペンションを用いたマシンであった。ハイテクを採用し時代を先行した名車と言われている。
そしてマンセルの予感通り、当時の歴代の最多記録9勝を打ち立ててWタイトルを獲得することになった。
チャンピオンが決まった日、マンセルは祝勝会は行かず、病院に行って骨のかけらを取り除き、年間の表彰式は松葉杖で出席した。この年より、ウイリアムズの黄金期と言われる時代となるのだ。
93年にはアラン・プロストでWタイトルを獲得。
そして、94年についにフランクが長年オファーをしていたアイルトン・セナをついに獲得することに成功する。
しかし、その年のサン・マリノでセナは亡くなってしまう。
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