■ウイリアムズ レーシングの創設者、フランク・ウイリアムズ。F1でのスタートは資金難に悩まされる日々だった。詳細は3分でわかる!ウイリアムズの歴史Part1【創設初期】
■1978年の好成績を機にコンストラクターズ、ドライバーズチャンピオンも獲得できるようになる。しかしフランクは事故により車椅子生活となる。詳細は3分でわかる!ウイリアムズの歴史Part2【成功と絶望】
■優秀な人材を確保し開発を進める。F1初のハイテクを搭載し、強敵マクラーレン・ホンダに挑む。詳細は3分でわかる!ウイリアムズの歴史Part3【ウイリアムズの黄金期】
■1994年、ウイリアムズに加入したアイルトン・セナでコンストラクターズチャンピオン、ドライバーズタイトルの両方を取るだろうと囁かれていた。
第3戦イタリア、サンマリノGP。セナはウイリアムズに入って、たった数ヶ月でレース中に亡くなってしまう。
その死には謎が多く、様々な憶測が流れた。ステアリングコラムが破損したせいだなど、セナの死へのショックに追い討ちをかけるかのように、チームに疑いの目を向けられ、イタリアの検察は殺人罪でチームを起訴する。
裁判は10年以上も続いた。フランクはもちろん、当時設計に関わっていたパトリック・ヘッド、エイドリアン・ニューウェイにとっても大変辛いものである。誰だって、自分が設計したマシンで悲劇を見たくないものだ。しかし「事故を殺人と言われるようなことになるなら、もうイタリアではレースを行わない」と他のチームが発言したこともあり、2005年に全員無罪が確定した。
94年は、セナが亡くなったことも影響してか、ドライバーズチャンピオンはベネトンのミヒャエル・シューマッハが獲得。しかしコンストラクターズはデーモン・ヒル、デビッド・クルサード、ナイジェル・マンセルの力でウイリアムズが獲得した。
96年はデーモン・ヒル、97年はジャック・ヴィルヌーブでWタイトルを獲得するものの、98年は一勝もできないシーズンを過ごしてしまい、それまでのような強さを発揮することができなくなり、ウイリアムズの黄金時代は終焉をむかえる。
コンストラクターズ争いでは何とか上位に入れる年もあったものの、5位以下に沈んでしまう年も出てくるようになり、2000年以降はドライバーの優勝もたった3回のみ。2012年にパストール・マルドナルドが1勝したのが最後となる。この頃からフランクは現場監督から勇退し、娘のクレアが副代表になり現場の指揮をとる。
しかし開発の方向性が間違って成績を出せなくなり、優秀な人材の離脱が加速していく。
2014年からはエンジンのレギュレーションが大きく変更され、メルセデス一強時代となる。ウイリアムズもメルセデス製のエンジンを搭載。その年から加入したフェリペ・マッサは、「シャシーも全てメルセデス製にして欲しい」とフランクにお願いしたことを告白した。しかしフランクは「今のスタッフから仕事を失うことになるからダメだ」と断り、最後まで苦しくても自分のチームと仲間を大切にした。
成績不振だけでなく、世界経済の影響も加わり、主力スポンサーが離れて資金難になる。そこから立て直すことができず、自社株を売却したり、歴代マシンを担保に入れたりすることでなんとか参戦を続けていた。
2017年に富豪ローレンス・ストロールの息子、ランス・ストロールを起用、2020年にニコラス・ラティフィを起用するなど、新人のペイドライバーがシートを獲得するようになる。ドライバーの持参金がチームを支える重要な資金源になっていた。
2020年新型コロナウイルスによりレースシーズンが凍結されて、レースで得られる収入が一部消滅。資金難に拍車をかけて、ついにチーム自体の売却をするしか道はなくなった。
アメリカのドリトン・キャピタル社に1億5200万ユーロで売却が決まった。ドリトン・キャピタル社は売却後もクレアがチームに留まることを打診したが、クレアはきっぱりと手を引いて、ウイリアムズ家がF1から去った。
一方でドリトン・キャピタル社は「ウイリアムズという遺産を尊重し、維持することが大切」と敬意を払い、経営陣の変化はあったものの、チーム名やシャシー名を含むほとんどのものを残している。
F1に参戦するチームのほとんどが自動車メーカーの中で、稀な家族経営という形で長年運営されていたウイリアムズ。最終的にウイリアムズ家はコンストラクター9回、ドライバーズタイトル7回、優勝回数114回と素晴らしい結果を収めた。
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