裕福な家庭ではない少年ジョージ・ラッセルがメルセデスF1のシートを獲得するまで

メルセデスというF1のトップチームにたどり着いたジョージ・ラッセル。一般家庭で育った若いラッセルは、実力だけではなく金銭的な問題で、レースの世界で継続していくのに苦労を要した。幼いときの環境や、どうやってレースの世界にとどまったか、また、ハミルトンの代役として出走したバーレーンGPの舞台裏を明かしている。

ラッセルにとって、子供の頃はレースはただの遊びでした。「レースがあなたの人生だ、と思わないなら、ただ単に楽しいと思う」と言う。彼の兄、ベンジーはモータースポーツで成功したキャリアを持っていて、ジョージもレーストラックで育ちました。レースが彼の人生のすべてになったのは12歳の時でした。

彼の父スティーブは、息子の夢に資金を提供するために農業で時給労働をしていました。レースに参加したい場合は年間5万ポンド(約809万円)、勝ちたい場合は20万ポンド(約3236万円)というのが、今日のジュニアドライバーの年間見積コストです。金曜日の夜、レースがあるところならどこでも荷造りして運転していきました。父はラッセルのエンジニアで、母はマネージャー、「母はすべてのテスト日、すべてのレース、すべての競争、すべてを書き留めていました」

「子供の頃は、両親のこの献身の代償を意識していませんでした。お金がかかるとは思わず、私たちはレースに行くと思うだけです」しかし家族のサポートは持続可能な範疇ではありませんでした。16歳の時、彼の父は「資金を提供し続けることはできない」と言いました。ラッセルはスポンサーを見つけなければなりませんでした。「もしできなければ、2年以内にレースができなくなっていた」と。この頃、彼はメルセデスの代表であるトト・ウォルフにメールを送り、会ってほしいと頼みました。

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ウォルフは次のように述べています。「ラッセルはスーツにネクタイをして、ブラックリーにある本社に来て、パワーポイントを使って、我々のジュニアプログラムのために検討すべきである人材である理由をプレゼンしたんだ」 「ジョージは、フォーミュラルノーユーロカップに参戦し、ポールを獲得してレースに勝った。クルマにもチャンピオンシップにも、慣れていなかったのに。その後、F4ではポール、レースでの勝利、チャンピオンシップでの優勝です。それから彼はオートスポーツヤングドライバーアワードの最終候補としてロードカーのテストの機会を与えられました。彼はその賞を受賞した史上最年少のドライバーになったのです」

ラッセルはトラックから離れた一般的な人生を選ばなかったが「その選択に満足している」と言う。彼は14歳で学校を卒業し、若者なら行っているだろうライブにも行ったことがなかったが、それが彼をより良いレーサーにしたからです。「人生には何でも上手になりたいと思っている人がたくさんいます。でも、それは現実的ではありません。なぜなら、すべてにおいて平均的であることになってしまうからです」

次のページはバーレーンGPでハミルトンの代役を務めた時の舞台裏

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