3分でわかる!ウイリアムズの歴史Part2【成功と絶望】

ウイリアムズ レーシングの創設者、フランク・ウイリアムズ。F1でのスタートは資金難に悩まされる日々だった。詳細は3分でわかる!ウイリアムズの歴史Part1【創設初期】

しかし1978年にアラン・ジョーンズが加わって、急にランキング上位になった。

10年近く予選落ちでで他のチームからエンジンを借りるような弱小チームだったのが、良いマシンが出来ると、良いドライバーも揃えられるようになり、ここからトップチームへと駆け上がって行く。

そして1980年、ついに念願のコンストラクターズチャンピオンとドライバーズチャンピオンを獲得する。

81年もアラン・ジョーンズとカルロス・ロイテマンの2人を擁してもコンストラクターズチャンピオンを獲得(ドライバーズチャンピオンはブラバムから出走していたネルソン・ピケ)

82年にはケケ・ロズベルグがドライバーズチャンピオンを獲得して、トップチームの仲間入りをした。

F1参戦は順調だったが、フランクの運命をゆさぶる大惨事が起きてしまう。

86年3月、マラソン大会に出場するため車で空港に向かっている時に、交通事故を起こしてしまったのだ。車が石垣に激突、車体がひっくり返り、大怪我をする。なんとかフランクも救出されたものの「脚の感覚がない」ことに気が付く。

首を骨折して、脊髄を損傷。死の淵を彷徨い、危篤に陥る。ついに医者は延命を諦めるように妻、ジニーを説得する。

しかしジニーは「何がなんでも救え」と医者をどなって、諦めなかった。その甲斐もあって最終的に助かり、妻は命の恩人となった。

しかし首の損傷で障害が残り、下半身が動かない体となってしまう。

これがフランクが車椅子になった理由である。

創設時からずっと、フランクが現場の第一線で奮闘しながら走り回っている映像も多々残されており、その姿は栄光に向かって走り続けているウイリアムズ レーシングの象徴のようなものだった。

後に現場に復帰はするものの、定期的な療養も必要になり、オーナーが現場にいないことでチーム運が混乱してしまった。86年のドライバーは昨年から続投しているナイジェル・マンセルと、新たに加入したネルソン・ピケという顔ぶれであったが、どちらのドライバーを優先させるのか、チーム内で意見が分裂してしまい、コンストラクターズチャンピオンはとれたものの、ドライバーズチャンピオンはマクラーレンのアラン・プロストに取られてしまったのだ。

同じ過ちは繰り返さないとばかりに、87年にはピケがマンセルとの戦いを制してドライバーズチャンピオンになり、コンストラクターズとWタイトルを獲得する。

しかし88年からはアイルトン・セナ、アラン・プロストによるマクラーレンの黄金期と言われる時代になる。圧勝しまくるマクラーレン・ホンダという強いライバルを相手に、ウイリアムズは独自の開発を続けていく。

Part3【ウイリアムズの黄金期】に続く

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