3分で読める!ウイリアムズの歴史Part1【創設初期】

ウイリアムズ レーシングの創設者はフランク・ウイリアムズである。

自身もレーシングドライバーとしての時期を過ごしたフランクは、1966年にF1のプライベートチームを立ち上げる。

今も昔もF1はお金がかかる。フランクに資金はなく、他のチームのシャシーを購入して参戦しており、資金繰りのためにゴミ置き場にある他のチームのパーツを手に入れて、お金のないF3ドライバーに売っていたり、学生がノリでするバカふざけのような行為で、公共の場で全裸で走ってお小遣いをもらうということもしていた。F1を続けるためには何でもした。

1969年、F2で多くの勝利を挙げていた親友のピアス・カレッジがウイリアムズから走ることになり、チームも期待で膨らんでいた。しかしガードレールに激突し、車が炎上するという事故を起こして亡くなってしまう。フランクにも大きな影を落とす。

身銭を斬り続け、生活が苦しくなっていった。家賃も払えず立ち退きにあって、家も自家用車も売ることになった。

運営費であるスポンサーから得た資金を、前年の支払いに当てるという、自転車操業状態になり、バーニー・エクレストンにも借金をしていた。バーニーはドキュメンタリー番組で、その時のエピソードを話している。

「2000ポンド貸して欲しい」とお願いされて、もちろん大金なので、翌週には返済する約束で小切手を渡した。約束通り、返済しに来た。するとちゃんと返したと証明した後に、ちょこっと世間話をして、その後「今度は2500ポンド貸してくれないか?」と切り出すんだ。

深刻な資金難が続き、1976年に石油王のウォルター・ウルフに運営権を売却して、何とか借金を返済する。フランクもそこで活動していたが、ウルフとの関係がうまくいかず、チームを立ち去ることに。翌年、当時一緒に働いていたパトリック・ヘッドと新会社「ウイリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を立ち上げる。

技術責任者として優秀なヘッドの尽力もあり、79年に初勝利するも、資金繰りは厳しいまま。他のチームは専用のトレーナーでヨーロッパを転戦しているのに、ウイリアムズはレンタルトラックに機材をつんで移動し、他のチームのスタッフに作業を手伝ってもらったりと周りの協力もあって何とか参戦していた。

シーズンの後半にはようやく連勝もし出して、収入が落ち着いてきた。しかしフランクは質素な生活を続け、極小のトレーラーハウスで生活、食事も紅茶とパンだけ。

「借金取りがきても、平気で居眠りをしている図太い神経の持ち主」と当時の彼を知る人は言うが、借金生活も苦にならなかった理由は「F1にかける情熱が大きく、自分とチームが成功すると自信があったから」と後に家族が語っている。

純粋にレースを愛して、自分やチームを信じて真っ直ぐに奮闘する姿に憧れる人も多くて、ウイリアムズでなら素晴らしい経験を得ることができると、何でも良いから一緒に仕事をしたいと人が集まるようになった。

そして大手のスポンサーも増えて、ようやく資金難から脱出することに成功する。

Part2【成功と絶望】に続く

コメント